3.11東日本大震災を経験して

『ミンドゥルレ』2012年5・6月号に寄稿した文章です。


Ⅰ 序・3つの震災
 2011年3月11日に宮城県沖を震源としたマグニチュード9という大きな地震が起きました。この地震は、日本列島に住む私達にとっては3つの震災として経験されました。一つは、地震そのものの大きな揺れとその揺れから来る建物の損壊、液状化現象などによる被害です。もう一つは津波です。遠くはハワイ、チリまで5メートルを超える津波として被害をもたらした大津波です。最後は原子力発電所の事故による放射能被害です。この3つの震災は場所によって経験の仕方が違い、また、人によっても被災の捉え方が異なっています。
 震源近くの地域は大きな地震がたびたび起きている地域で、日ごろから建物の耐震化、避難訓練など地震に対する備えが進んでいる地域でした。死者は行方不明を含めると2万人近くなりますが、揺れそのものの被害から亡くなった人は4~5%でした。約95%は津波による死者です。原子力発電所事故による死者は今のところいません。この地震は、規模、震度ともに日本の気象観測史上最も大きな地震で、被害も統計を取るようになってからもっとも大きな自然災害による被害を出しています。
私は東京で地震を経験し、私のいるシューレ大学では基本的に毎月、被災地に行き支援活動をしてきています。この震災をどのように経験し、今、どのようなことを考えているのかを共有したいと願ってこの文章を書いています。

Ⅱ それぞれの3月11-12日
①東京の地震
 私は自身の起きた時、卒業式に出席するため東京シューレ葛飾中学校に来ていました。卒業式が終わり、卒業生の記念撮影を終えた時に、緊急地震警報が体育館のスピーカーから流れました。あと数条秒で強い揺れが来るという内容が機械の声で流れました。体育館の控え室にいた私は、同じ部屋に居合わせた人たちに机の下にもぐって落下物から身を守ってもらい、避難口を確保するため、部屋のドアを開け立っていました。するとすぐに今まで経験したことのないような強く大きな揺れが長い時間やってきました。体育館からは子ども達の悲鳴が上がりました。
 揺れが収まるとみんな校庭へと出て、しばらく安全が確認できるまで身の安全を確保することにしました。私は、シューレ大学と新宿シューレの子ども・若者が心配だったため、新宿へと向かいました。道はがらんとしていて、車も人もあまりいませんでした。駅に着くと人々が戸惑うように経っていました。そこで、2度目の大きな揺れが来ました。ビルの看板が壁からはずれ、電線でかろうじて壁につながり、余震で弧を描くように大きく揺れていました。駅員に聞くと地上の電車も地下鉄も運転のめどが立たないということでしたので、16キロほどの道を歩いていくことにしました。
少しして、道には乳児や幼児を連れや母親達が出てきて不安そうに顔を見合わせている光景を眼にするようになりました。さらに時間が経ってくると徐々に車が道を走り出し、その数を増していきました。そして、1時間もすると渋滞が始まりました。通行人も増え、やがて、コンビニエンスストアと公衆電話の前に行列ができるようになって来ました。コンビニの行列は、当座の食べ物や飲み物を確保するためのもので、公衆電話の行列は携帯電話が使えない中で、公衆電話はまだ通じることがあったからです。さらに、都心に差し掛かり通りを歩く人が増えていきました。江戸城に近い九段下に差し掛かった時、救急車が何台か着ていました。九段会館というホールの天井が地震で落ちて人が亡くなっていたのです。通行人の流れはますますその数を増していきましたが、とても静かで多くの人が話もせずに黙々と歩いている不思議な光景でした。
 5時間かけてたどり着いたシューレ大学と新宿シューレは人も建物も大きな被害はありませんでしたが、この日は公共交通機関の復旧が遅れたり、復旧しなかったりで、帰れない子ども・若者と一緒に夜を明かしました。東北出身の学生は何度電話をしても電話が通じなくて、とても不安な一夜を明かしました。

②大川小学校の地震
 4月に初めてボランティアに行ったのは宮城県石巻市の旧河北町の大川小学校の学校区でした。津波による瓦礫を取り除いたり、整理をしたり、土嚢を作って積んだり、という作業をしました。この地区の小学校は、モダンな鉄筋コンクリート2階建ての校舎の大川小学校です。ここは、災害時の避難所に指定されていました。海から10キロも離れている山と川に囲まれた自然の豊かなところに建っている学校です。地震が起き、校庭に集まり、親が迎えに来た場合は親と一緒に子どもは帰りました。しかし、108人いる子どものうち、約70人が校庭に残り、その子ども達のほとんどが亡くなりました。避難をする途中、川をさかのぼってきた津波に襲われたのです。

③宮城県立浜の地震
 立浜は旧雄勝町にある48戸ばかりの小さな漁村です。この浜では昔から「大地震があれば津波が来る」と語り継がれ、避難訓練も行なってきました。5月に瓦礫撤去の支援をしに行ってであった漁師の今野さんは、買い物に行っていた町の商店街で地震にあい、道をふさぐ木を車をぶつけて道を切り開くなどして大急ぎで自宅に帰り、車を置いて、高台の避難場所に逃げました。しかし、海抜十メートル程度の高さでは間に合わない津波の高さを感じ、石段をたくさん登った神社の境内まで避難しました。普段杖を突かないと歩けないお年よりも、必死に短い時間で何とか逃げたのだそうです。神社の境内で夜を明かしたのですが、この日は寒い日で雪が降っていました。着の身着のままで逃げたため着ているものが薄く、みんなで焚き火を炊いて何とか暖をとったのだそうです。
 漁師の今野さんは、周りの様子を知りたいのと、救助のヘリコプターが見つけてくれないかもしれないので、消防団の光の強い懐中電灯で周りを照らすと、海岸の方の電信柱にしがみついて海水に飲み込まれないようにしている人に光が当たりました。光が当たった人は、助かるかもしれないと思って「助けてくれ」と叫び声が聞こえたのだそうです。しかし、山の中の神社に避難している今野さんたちには、今や海の中にたつ電信柱の上にいる人を助けることはできません。助けを呼ぶ声を聞くのが、胸が張り裂けるようなつらさだったそうです。

 東京では地震の後、町は静かになり、商店の棚から食料品、日用品が消えていきました。手に入らなくなるかもしれないと不安になった人々が買占めに走ったからです。車を持っている人は、普段、乗っていない人も念のためにとガソリンをタンクに満タンにしようとして、ガソリンスタンドに行列ができました。
 やがて、原発事故で発電量が減り、計画停電という計画的に地域を順番に停電させて電力量をコントロールする方法が実施されました。厳密な温度管理を求められる納豆やヨーグルトなどの発酵食品は生産が困難になり、店頭から姿を消しました。省電力の努力が求められ、街がうす暗くなりました。電車も運転本数を減らしました。
 しかし、何より東京の人の関心は放射能の影響を受けないように、被災地で作られた野菜や魚肉を買わないようにしたり、雨の日には外出を避ける人が出たり、放射能の影響を受けにくいといわれていた九州まで避難した人もいたりしました。
 演劇、コンサート、バレエ公演など多くの表現活動も中止になりました。このような非常時に不謹慎だという自制が働きあったり、放射能の影響を恐れた海外のアーティストの来日キャンセルが重なったりという事情もありました。 東京の人々は、自身に及ぶかもしれない放射能の不安にかられ、店頭からペットボトルの水が消え、野菜や肉に産地がとにかく福島から遠いものを買うようになった人々が現れました。
 東北の被災地では行方不明となった人々の捜索と瓦礫の撤去が、毎日行なわれ、家に住めなくなった人たちは学校の体育館などの避難所で暮らさざるを得ない状況でした。食べるものにも不自由し、車社会の地方なのに、東京で手に入るガソリンが被災地には回ってこなくて、車での移動もままならず生活に大きな困難がありました。東京の人たちの大騒ぎは、愉快なものではなかったそうです。

Ⅲ 一年後
■今、思うこと——途中経過としての今の考え
 東日本大震災を経験して考えること、今の時点での考えは途中経過の中での考えだということです。もちろん、全ての考えは途中であり、全ての考えは変わっていくものです。しかし、この震災はまだ体験の長い過程の始まりのほうに過ぎず、これから経験していく重要なことがまだまだあると考えられるため、まだ、経験をしたといえないのです。経験をし始めて1年目での考えということになります。

■今まであった問題が大きく析出された
 津波や放射線の被害を受け、農業や水産業はどうするのか、震災を機に若者世代がより流出し、高齢化が進むことをどうするのか、鉄道や路線バスなどの公共交通機関が脆弱であるが高齢化などが進む中でその再建をどうするのか、過疎地域をはじめ被災地のような地方で診療活動をしようという医師の不足をどうするのか、地震や津波に備え、倒壊した家屋をどこに再建するのか、など被災地では深刻な問題が山済みです。深刻な問題のほとんどが、生存にかかわる問題です。しかし、これらに共通するのは、これらの問題が震災から始まったのではないということです。実は、これらの問題は震災以前から被災地、あるいは日本社会にあった問題で、それらの問題が、被災地の問題を知ろうとする人々、マスコミ、被災した人の声などから明らかになっているだけといいえることなのです。例えば、原子力発電所事故そのものは確かに日常的なできことではないでしょう。しかし、原子力発電所が事故を起こしえることはアメリカのスリーマイル島事故、旧ソ連のチェルノブイリ事故を経て日本においては地震や津波で事故が起きえることは、二十数年前にも随分議論したはずのことでした。電力を原子力に頼るとはどういうことなのか、そのことも毎日の問題です。今回事故のあった福島第一原子力発電所は東京電力の運営する発電所で、そこで作られた電気は地元の東北で使われていたのではなく、東京のある関東に送られていました。しかし、事故があると放射線の影響がより強くあるのは東京の人ではなく、東北、とりわけ福島の人です。そのような構造は、東北だけではなく、関西に電気を作って送っている発電所が北陸に集中しているなど、同様に存在しています。
 つまり、震災が起きて初めて考えられるような問題はほとんどなかったのです。普段のこの暮らしでいいのか、ということを私達は大切な部分で積み重ねてこられなかったということが、今回の震災で析出したということなのです。農業や漁業などでも同じです。津波で塩水をかぶった田畑をお金と時間をかけて再建するかどうかを悩み、すでにあきらめた農家もあります。また、今も深刻に悩んでいる農家も多くあります。その背景に、農業の担い手の高齢化や、担い手が高齢者でないにしても次世代が農業を継ぐのかという問題があるからです。農業を続けていくことにあまりに困難が大きい状況で、無理を重ねて農業を続けるのか決断が困難なのは無理もありません。それは、林業、水産業でも同様です。でもこれは、震災前からあった問題で、問題の根は震災以前から変わらずあるのです。地方医療の問題、地方の交通基盤が弱いこと、地方が若者流出を含め深刻な高齢化を抱えていることなどは、確かに震災以前からの問題なのです。
 このことは、宮城県、岩手県、福島県、のような被災3県ではない地域に住む人々も、今、自分達はどのような問題を抱えているのか、それらの問題をどのように理解し、どのように接していくのか、行動していくのかが問われているのです。例えば、原発推進の知事に投票するのかどうかを問うべきだったのは原発を建設したり、チェルノブイリの事故などで原発再検討の世論が盛り上がった二十数年前であったり、四十年前であったりしたのかもしれないのです。

■想像力を持って生きる:様々な被害の人がどうつながりあえるのか
 今回の地震には3つの被災があると冒頭に書きました。これらをどのように被災するのかだけでも一様ではありません。被災者も多様です。例えば、被災地の外で暮らす人でも乳幼児がいる家庭と、高齢者のみの家庭では放射線の心配の仕方も違うなど、様々なのです。津波で家をはじめ財産の一切をなくした人が、避難所になった公民館の縁側でその被災を嘆いた時に、その傍にいた別な被災者が家族が無事なだけうらやましいといったということがありました。確かにそうなのでしょう。家族まで亡くした人は本当に大変な経験をしたのです。しかし、そのような人がいるからと言って、家をはじめ財産の一切を無くした人が大して被害がなかったというように考えることはできません。しかし、このような人同士が、話しにくいということがあるのです。被災の多様さが、ややもすると、人々の分断を招きかねないのです。
 さして震災の被害が無かった東京の人たちが、放射能からのわが身の影響ばかりを心配している今の状況を津波で多くの人を亡くし、今なお3000人以上の行方不明者がある津波の被災地域では、あまり良い気持ちでは感じられないのです。例えば、福島県は地理的地形学的にも社会経済的にも原発があり、津波の被害にもあった浜通りといわれる海岸部、人口経済の中心の中通り、内陸部で豪雪地帯の会津の3つにわけてきました。会津は今回も放射線の影響が低く、東京とあまり変わらないところが多いです。でも、会津の農産物は放射能がほとんど検出されていないという検査票があっても、買われないという状況があります。大丈夫かもしれないけれど、なんとなく食べない方がより安全な感じがするのです。被災県で農林水産業をしている人たちは風評被害と闘っています。風評被害とは、実際には害がないものでも害があるようなイメージから遠ざけられ、経済的社会的な被害をこうむることです。
 シューレ大学の学生の一人に福島県出身の学生がいます。その家族がつながっている農家に、有機農業を丁寧に行なっている農家があります。丁寧に有機農業で生産した野菜を直接つながっている家庭に送って、農業を続けてきました。しかし、今回の事故で福島の野菜は食べないという人が多く、今までじかにつながっていた人たちが、購入をやめたのです。その農家の主は自殺しました。風評被害は人をも殺すことがあるのです。まだ、今回の原発事故の放射線では人は亡くなっていませんが、風評被害では人は亡くなっているのです。
 そこには、同じ社会に生きている人としての想像力が決定的に不足していると考えます。放射線の影響は恐ろしい、その不安を感じることは仕方のないことです。しかし、放射線の被害は福島県で同じようにあるのではなく、地理的な距離、地形や風向などの条件などから場所によって大きく異なっています。福島県産だからといって同じ危険性があるということはないのです。丁寧に調べ、何を食べるのかということを考える必要があります。しかし、それ以前に、被災地や、被災地の近くに住む人に思いをはせることは必要ではないのでしょうか。同じ社会に生きるものとして、どのような思いを持って生きているのか、想像力を働かせ、感じよう、知ろうとした上で、自分はどう行動しようと考える必要があると考えます。そうでなければ、私達もまた、福島の農家を自殺に追い込むようなことをしかねないのだと感じています。

■何を大切に生きていきたいのか――価値観の問い直し
 やはり強い揺れと津波を経験した宮城県多賀城市で長年教員をしている友人は、震災で価値観自体が問われた、と語っています。震災の前と後で、同じには生きられないというのです。主体的に考え、行動していこうとしてきたつもりだったけれど、「こういうものだ」とか、「これは変えられない」とか、知らないうちにいろんなことを考える対象から括り出していたということなのだと思います。それだけでなく、日常の忙しさの中で、どことなく考えているつもりになっていて、しかし、実は自分が何をどう大切に生きて生きたいのかということがあいまいなまま、日々が過ぎているということになってはいないかという問い直しがあるのです。
 被災地では結婚とまた離婚がこの1年で随分増えたのだそうです。震災を経験してなによりも家族を持って生きていくことが大切と感じ、結婚する人が増えたという人もいます。また、この夫、あるいは、この妻と一緒に死ぬのは嫌だと気づいて離婚することにしたという人も結構出てきたというのです。
 先程の友人は、買い物の仕方が変わったといいます。以前は、限られたお金を大切に使おう、長く愛情を持てるものを買って、買ったものを大切に使おうと考えていたのだそうです。しかし、震災後はそれもそうだけれど、どのように仕事をしている人にお金を払いたいのかをまず考えるようになったといいます。野菜を買うとしても、ただ無農薬有機栽培で味がいいかだけで判断するより、どんな農家がどんな姿勢でどんな思いで作った野菜なのかを優先して買うようになったというのです。多少、色や形、場合によっては味が少し落ちても、このような人が作っている野菜を買いたい、そういう思いで買い物をするようにしていきたいというのです。もちろん、それは野菜に限らず、食器でも服でも同様なのです。
 価値観が問われたということは、結局は、私は何を大切に生きて生きたいのかということを問われたということであり、私にとって何が大切なのかということを問うていくということの意味がとわれているということです。

■自然との対話
 地震が多い日本、とりわけ大地震の多い今回の被災地域では、地震やある程度の規模の津波に対する備えはできていました。専門家たちが口々に言ったのは、今回の地震や津波は想定外の大きさだったということです。一部の学者の中には、今回の地震の起きた場所と、地震と津波の規模や被害が、約1000年前に起きた貞観地震のものと非常に共通するといっている人たちがいます。今回の地震がある前から警鐘を鳴らしてきた人もいます。
 もちろん、そのように過去の被災から学んでいかなければ行けません。過去の被災から学ぶという時に、過去や現在の自然から学ぶということも重要だと考えざるを得ません。自然を物理科学的に捉え、どのように制御して人間にとって快適な暮らしを実現するのかという実践を進めてきました。その結果、自然の豊かな東北にあっても、東京ではますます持って自然と対話するという暮らし方を急速に手放していってしまいました。暮らしの中に自然との対話を持っているということは、かつては都市部においても行なってきたことでした。月の満ち欠けを見て日にちを知り、風を読み日々の暮らしの仕方を調節してきました。今でもそのような暮らし方は京都や金沢の町屋では残っているところもあります。
 自然を科学的に捉え制御する対象としてしか捉えないということは、モノとして眼差すということです。そうでなく、生きている存在として、対話をしていく存在として付き合っていくということもまた必要なのではないかと、そのような対話が日々の中に必要なのではないかとも考えています。想定外という多く聴かれた言葉ですが、自然はそのように想定して付き合うものなのか、と考えざるを得ないのです。むしろ、生き物が持つ一定以上の不可知性を前提に、また、生命あるものに対する敬意を持って自然と対話をしていくことが必要なのではないかと考えるのです。

■日常を取り戻すということ
 被災地でも、東京でも震災後に良く聞かれたのが、「早く日常に戻りたい」という言葉でした。それは、日々の中で落ち着きを持ちにくく、なんだか不安なような気持ちになるということであったかもしれません。確かに、いろんなことが一定せず、あてにして行動するこということもしづらい状況はやりづらさがあります。日常に戻っていけることは大切でありながら、そうすることで、ややもすると、同時に自分にとって何が大切なのか、自分はどのような社会に生きているのかを問うていくことの手を緩めてしまいがちなように思います。日常を取り戻しながら、自分の価値観を不断に問うていくということをどのように実現するのかは重要なのです。

■無常ということ
 今回の震災でも、無常ということが何人もの人から語られました。無常は1995年の阪神淡路大震災の時も、古くは1923年に起きた関東大震災の時も、物理学者の寺田寅彦のような科学者からも述べられました。宗教学者の山折哲雄は、無常の三原則を次のように言います。

「この世に永遠なるものは、何一つ存在しない」
「形あるものは、必ず壊れる」
「人は生きて、やがて死ぬ」

 この三つの原則は、基本的には同じようなことを述べています。全てのものの有限性、今という瞬間の固有性、が表わされ、無常と言う言葉を使う時には、はかなさを伴うことが多くあります。はかなさは、いとおしさから来るものではないでしょうか。無常には、生きとし生けるもの全てに対する情感があるように思います。無常の対象には、山河のような自然も含まれ、おおよそものとされるものまでも対象とし、万物を生命性を持つものとして、いとおしく、有限性、固有性のあるものの始まりと終わり、とりわけその終わりをいとおしむもののように思います。万物を生命、あるいは生命性を持つものとして対し、その今を大切にする、また、いつ来るかわからないその終わりをいとおしむ、ということが無常にはあるのでしょう。
 そして、明るい無常観という言葉が使われます。それは、命の終わりがあれば、始まる命があるという感覚をあわせもつということです。ドイツの思想家ワルター・ベンヤミンの「新しい天使」も無常とある程度重ね合わせることができるように思います。人の世の繰り返し、連なる廃墟に眼を見開きながら未来へと吹き流されていくありようはなるほど、無常と重ねりがありそうです。しかし、無常には人智を超えた万物に対する畏敬の念と、新しい命の始まりへの希望が含まれているように思います。ベンヤミンの「新しい天使」も大切だし、より忘れたれて来た無常の感覚が重要なのではないかと思います。

■人の絆が弱くなっている ――とりわけ東京などの大都市部
 震災は震災以前からあった問題をよりはっきりと浮かび上がらせたと言うこと書きました。そのような問題でもっとも深刻だと感じるのは、人と人との間の関係が急速にやせていっているという問題です。他の社会でも進んでいますが、日本社会ではここのところ急速に進んでおり、NHKは「無縁社会」という言葉で大きく報道し、朝日新聞も「孤族」という言葉で取り上げてきています。高齢者に限らず人がひっそりと知られずに亡くなり、何ヶ月もたってから発見されるような「孤独死」と呼ばれる死に方は、阪神淡路大震災の時から社会問題としてずっとバロック音楽の通奏低音のように社会の目立たないところでしかしずっと鳴り続けている音として存在してきているのです。
 便利に快適に生きる、他者の生き方に干渉しないということをしていくと、人との距離が離れていくということになっているのが、今の東京に代表される日本社会の人との付き合い方になってきています。その生き方は、ややもすると「孤独死」社会になっていくのです。阪神淡路大震災の被災者が移り住んだ仮設住宅で少なからぬ「孤独死」が起きました。しかし、その後、日本社会の一般の住宅でより多くの「孤独死」が起きていきました。
 今回の震災で、あなたにとって、私にとって大切なものは何なのか、どのように生きたいと考えているのか
 結局、何を大切に生きて生きたいのか、人と、社会と、自然とどう生きて生きたいのかを問われることでした。とりわけ、人とどのようにつながって生きていくのかは、震災前からの大きな課題としてまた改めて突きつけられたのです。
 自分自身と、周りにいる人と、社会と、自然と毎日の中で、一回性の関係として対話を積み重ねていくしかないのだと、今はそのように感じながら日々を過ごしています。